2007年 05月 28日
思春期シティ岐阜 |
人間は、自分のことを世界の中で相対化して、自己を認識して、なんとなくアイデンティティというのを形成して大人になっていくものらしい。
「自分はこんなキャラ(でいたい、と見られたい)」というのはまだまだ未熟で、
「自分はこんなもん」という、諦めとも矜持とも言える状態にたどりつくと、一般的には大人だと言われるのではないでしょうか。
曖昧模糊としたあやふやな自己像を掴もうとしてあがくのが青春というやつですが、その人のわかりやすさは度合いがあって、どこまでも掘り下げる人もおれば、はじめのほうから「自分はこんなもん」と分かる人もいて、人それぞれです。
往々にして、自分のことが分かっている人というのは、していることに嘘や嫌味がない。と思う。自分のすべきことや役割をちゃんと分かっているひとは大人だと思うんです。
で、何がいいたいかというと、まちというものもそれに近いのではないかということです。
自治体が破産するこのご時世、未来に向かって明確なビジョンを打ち出せるまちはどうも、かなり小さなまち、弱いまち、田舎のまちに多いように思います。そもそも地域資源を生かして、グローバル経済から搾取されないように地域を守らなければほんとに滅んでしまうというような危機感が、そういうビジョンを作らせるのかもしれませんが。
つまり「自分はこんなもん」という、諦めとも矜持とも言える状態にたどりついているからこそ、本当に必要な打ち手を実行できるある意味での強さがあるのではないかと思うのです。
(たとえるならば老年期)
一方で東京都とか名古屋市とか豊田市とか、わかりやすく勝ち組のまちも、分かりやすく自己を認識できるのであんまし考えなくていいんじゃないかと・・・。
(たとえるならば幼児期)
さて、
岐阜市は中途半端だ
岐阜市にはビジョンがない
というのはよく言われがちなことですが、
まあそのとおりだとも思います。
ただ思うのは、岐阜市は行き先を考える前に、正しい自己認識ができていないのではないかということ。
自分は都市なのか田舎なのか
自分は勝ち組なのか負け組なのか
自分はかっこいいのかかっこわるいのか
自分に可能性があるのかないのか
未だに迷っているように思います。
本当に自然と伝統的な町並みしか無かったら、そこに全力で投資せざるをえないだろうし、
大企業の集積があったら、企業城下町になろうと思うかもしれないし。
まあ、でも、いつまでもそんなふうに思春期ばりに迷われていたら、市民が迷惑します。
世の中の主流であるらしいくだらない2分法の中に自分を位置づけるのではなく、中途半端な自分を「こんなもん」と諦めて、さっさと客観的に自己認識をして未来のことを考えないと、滅びますよ。
と、いう姿勢で、思春期シティの総合計画について考えてみたい。
あとよくあることですが、「広い視野を持て」と子どもに教育するぐらいですから、
東海圏とか国内とか、狭い範囲で相対化するのではなく、(結果は駅前ベッドタウン化)
文字通り世界の中での岐阜市を捉え直すというのが大切だと思う。
「自分はこんなキャラ(でいたい、と見られたい)」というのはまだまだ未熟で、
「自分はこんなもん」という、諦めとも矜持とも言える状態にたどりつくと、一般的には大人だと言われるのではないでしょうか。
曖昧模糊としたあやふやな自己像を掴もうとしてあがくのが青春というやつですが、その人のわかりやすさは度合いがあって、どこまでも掘り下げる人もおれば、はじめのほうから「自分はこんなもん」と分かる人もいて、人それぞれです。
往々にして、自分のことが分かっている人というのは、していることに嘘や嫌味がない。と思う。自分のすべきことや役割をちゃんと分かっているひとは大人だと思うんです。
で、何がいいたいかというと、まちというものもそれに近いのではないかということです。
自治体が破産するこのご時世、未来に向かって明確なビジョンを打ち出せるまちはどうも、かなり小さなまち、弱いまち、田舎のまちに多いように思います。そもそも地域資源を生かして、グローバル経済から搾取されないように地域を守らなければほんとに滅んでしまうというような危機感が、そういうビジョンを作らせるのかもしれませんが。
つまり「自分はこんなもん」という、諦めとも矜持とも言える状態にたどりついているからこそ、本当に必要な打ち手を実行できるある意味での強さがあるのではないかと思うのです。
(たとえるならば老年期)
一方で東京都とか名古屋市とか豊田市とか、わかりやすく勝ち組のまちも、分かりやすく自己を認識できるのであんまし考えなくていいんじゃないかと・・・。
(たとえるならば幼児期)
さて、
岐阜市は中途半端だ
岐阜市にはビジョンがない
というのはよく言われがちなことですが、
まあそのとおりだとも思います。
ただ思うのは、岐阜市は行き先を考える前に、正しい自己認識ができていないのではないかということ。
自分は都市なのか田舎なのか
自分は勝ち組なのか負け組なのか
自分はかっこいいのかかっこわるいのか
自分に可能性があるのかないのか
未だに迷っているように思います。
本当に自然と伝統的な町並みしか無かったら、そこに全力で投資せざるをえないだろうし、
大企業の集積があったら、企業城下町になろうと思うかもしれないし。
まあ、でも、いつまでもそんなふうに思春期ばりに迷われていたら、市民が迷惑します。
世の中の主流であるらしいくだらない2分法の中に自分を位置づけるのではなく、中途半端な自分を「こんなもん」と諦めて、さっさと客観的に自己認識をして未来のことを考えないと、滅びますよ。
と、いう姿勢で、思春期シティの総合計画について考えてみたい。
あとよくあることですが、「広い視野を持て」と子どもに教育するぐらいですから、
東海圏とか国内とか、狭い範囲で相対化するのではなく、(結果は駅前ベッドタウン化)
文字通り世界の中での岐阜市を捉え直すというのが大切だと思う。
by oniku99
| 2007-05-28 23:26
| 岐阜のこと